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2016.10

第70回(3/3)

【著者:行 達也】

―その自信はどこからきたんですか?

「子どもの頃から、自分がヒットすると思うものはみんなヒットする。中学1年の時から、「これはいける!」とか、ずっとそういうのは、邦楽も洋楽も関係なく、いつも思ってたんです。だから少年時代からビルボードとかのチャートはすごい興味あったし。」

―じゃあもう幼少の頃から、音楽の仕事するんだろうなみたいな事は…

「もう思ってましたね。中1くらいの時からバンドのプロデューサーやりたいと思っていた。プロデューサーという言葉は知らなかったけど、でもバンドって、メンバーだけではなく、その全体を制作する人がいる訳でしょ?ビートルズにおけるブライアン・エブスタインみたいなマネージャーと、ジョージ・マーティンというプロデューサー。僕は、プロデュースの仕事がやりたかったんですね。つまり、バンドの編成をどうするとか、どういう曲を作るのかとか、そういう仕事をやりたかった。」

―だいたいそのくらいの年齢だと、どっちかっていうと音楽をやりたいとかそっちの方に興味が行くのが普通かと。

「それはね、思わなかったんですよ。何故か。だから、まあギターくらいは買って歌ったりもしたけど、でも最初から人前で何かをやるとか、自分で曲を作るとかには全然興味がなくて。やっぱりいいクリエイターを見つけて、「この人のアレンジは絶対いけるぞ」なんてことを判断することが好きでした。それは洋楽にも邦楽にもあって、洋楽しか聴かないとかジャズしか聴かないじゃなくて、全部聴いて、「これは好き」「これはみんないいって言うけど俺にはイマイチよく分かんない」とかね。それはどのジャンルにもある訳で、横断的にこういう判断をできる人になりたいなって、そう思っていました。」

―それを中学生くらいから、なんとなく漠然と?

「いや、中学1年の時からもう、将来の計画として、ノートに全部書いてある。10か条の表みたいなものに書いてありました。」

―すごいなあ(笑)

「バンドはツインギターでいきたいとか、そういう風な妄想というか…」

―『売れるためには〜』みたいな?

「そうそう。そういうことをずっと考えてましたね。」

―じゃあ大学を卒業されて、仕事としてライターを始めた頃もメジャーな歌謡曲はさほど興味なかった?

「売れているものが嫌いっていう訳ではないですが、まあ基本的には若いから、若干へそ曲がりな所もある。そういう所もあるけれど、でもやっぱり売れているものは、売れているなりの理由もちゃんとあるし、良さは分かるんです。だから森進一の曲で、誰々が書いたのはいいけど、誰々のは外れるよねとかが分かる訳です。○○さんが書いたやつはそこそこの数字はいくけども、そうじゃなくて彩木雅夫とか吉田拓郎とか、新鮮な作家が書いたのを聴くと、「これは全然新しくていい」とか「いまいちだ」って分かるじゃないですか。作曲家とか編曲家で音楽を聴いていると、やっぱり、作詞・作曲・編曲がほとんど全て、歌は魅力的な声があるかどうかみたいな、そういう聴き方をしてたんですよ。それは小学校4年の「上を向いて歩こう」との出会いから始まっています。

それで、小学校の終わりくらいになって、ビートルズが日本でデビューしたところに居合わせると、あ、ここはもう編曲家がいないんだ。それまでの編曲家がいない、自由な世界なんだということに気が付くんです。バンドが全部主導権を持ってやっている。特に、ビートルズの後にローリングストーンズが好きになったんですが、ストーンズの音楽はどう考えたって指揮者が譜面に書いたものではなかった。その時に、ああこういうのがいいな、と思った。だからジャックスもそうだったし、はっぴいえんどもそうだったわけでしょ。譜面を書かない人たちによる譜面に起こせない音楽が登場したところに、タイミングよく出会えた。というようなところでもう大学生のときに、自分でコンサートを企画して、それこそプロデュース研究会なんていう言葉がまだない時代です。1972〜1973年頃。自分の大学の学祭でやり始めました。非常に不思議なコンサートでした。アメリカから帰ってきたばっかりの東京キッドブラザースにいた下田逸郎がオープニングアクト。米軍の基地で演奏していたソウルバンドで、後に有名になる人が揃っていたんですが、それとかをやった後に、メインが平山みきでした。つまりその時から歌謡曲とかジャズとか、ロックとかニューミュージックっていうのは、僕の中では全部並列にあったのが、後に振り返ってみてわかりました。歌謡曲をメインにしたコンサートをやったんです。」

―で、お客さんはいっぱい入った?

「いっぱいでした。その頃の明大は闘争やっていて、封鎖されていた頃なので、解放区の中で、明大の記念講堂でやったんですけれども。多分千何百人か入るホールがいっぱいになった。つまり占拠して寝泊まりしているセクト、あるいは応援団とかも含めて、みんながやっぱり平山みきはいいんだっていうことを分かってくれる(笑)」

―そのチョイスはすごいですね

「平山みきさんに40年後にお会いしたときも、ちゃんと覚えていてもらえてうれしかったです。ちょうど「真夏の出来事」がヒットした後で、ちょっと人気に陰りが出てきている頃だったんです。そういう時に呼んでくれたってことで、しかもヘッドライナーで。」

―じゃあ、彼女にとっては思い出深い?

「思い出深かったみたいです。その直後くらいに、はっぴいえんどの解散コンサートに呼ばれて文京公会堂に行きましたね。その頃から多分、自分のイベントとは何かと考えたりしていて、大蔵さんとかと知り合って、っていう様なことがあって。」

―イベントまでされてたんですね。その頃、剛さんみたいな“データの人”っていたんですか?

「いや、いないでしょう。」

―ですよねえ(笑)ってそこまで当時のこともちろん詳しくないんですが、印象として感性を元に評論や考察している人が多い気がしていて。

「だから、売上の数字と、質の良し悪しというか、新鮮かどうかについて、その両方を普通に行き来できて、しかもいいものはいいっていうのは、全部を作り手で聴いてるからなんですね。「あ、この作曲家とこの編曲家の組み合わせは、最近みんなレベル高いね」とか。筒美京平さんのヒット曲を選ぶのは簡単で、まず作曲と編曲の両方をご自分でやっているかどうかでわかる。編曲を人に任せるのはワンランク下がる。京平さん、自分の大事な曲は自分で編曲する。その腕前がヒットに直結しているとか。もちろん組んだアレンジャーがよくて、ヒットすることも当然あったんですが、でもやっぱり勝負をかけている曲は自分でやるっていうようなことが、分析してみれば分かるじゃないですか。そういうのが、なんか好きだったんですね。」

―なんかこう、そことその剛さんのその感性からくる、これいく・いかないっていうところが、やっぱりデータの裏打ちっていうのが結構あったりとかして。でもやっぱり、感性の人の方が多い…今でも多分そうだと思うんですよね。データが根っこにあるっていうのは、すごいなって思って。その膨大さが。

「それはね、多分表には出てないデータってたくさんあると思う。結局レコード買っても、どこのスタジオでやったとかっていうのは、1970年代の前半までは書いていなかったんです、日本では。ところが外国のものは書いてあるじゃないですか、割と。特にロック系のものは、なんとかスタジオでとか、エンジニアが誰だとか、プロデュースが誰だとか書いてあって、それが日本でも同じはずなのに、日本にはそれがないので、詳細が分からない。でも音を聴けばコロムビアの音はこうだとか、コロムビアにも3種類くらい音があって、泉さんというディレクターはこの音でとか、そういうニュアンスはなんとなくつかめてくる訳ですよね。そうやって、ビクターだったらこうで、RCAはこうで、東芝の音はまた全然違っていて、キングはすごい大人しいしとか、ポリドールは古いしとか、もういっぱいあるんですね。だけどポリドールは急に井上陽水とかで、サウンドが新しくなって何が起きたんだろう?みたいな(笑)。あるいはポリドールの中で華やかなのはタイガースなんですね。何でなんだろうか?って気になるじゃないですか。するとタイガースはどうも、渡辺音楽出版が全部、自前で作ってるってことが分かってくるんです。ということはレコード会社じゃない、渡辺プロダクションなんだみたいに、そうやって背景が分かってくる。そうやって自分で聴いた音と、自分で知っている情報と、表には出ていないけれども、調べていったらなんとなく見えてくるものみたいなのがあって、それをつなぎ合わせると自分なりにデータになっているんですね。

だから、ミュージック・ラボに入ったときに嬉しかったのは、その裏の事情が全部わかる立場をもらえたこと。今までの学生の頃とかの疑問が、実際に関わっていた諸先輩方に、正しく質問すれば答えていただける。だから謎だったことが解ける訳です。それまではレコード会社が君臨していて、そこから新人が出たらそのレコード会社が自社のスタジオで、自社の社員の力で作ったと思っていた。でも実はそうではなかったということが全部分かってきた。そういう時期に大学を出て、この世界に飛び込んできたのです。

だから1969年に初めて東京に出てきて、70年から大学生活が始まったけど、もう一日中レコードをかけて音楽を聴いてる。基本は洋楽のロックですが、ザ・フォーク・クルセイダーズやジャックスやはっぴいえんどが登場して、邦楽も俄然、面白くなってきて吉田拓郎や井上陽水がブレイク寸前という空気感だった。夜になると今度はジャズを聴いて、そこに歌謡曲も入ってくる。行きつけの飲み屋に行って、仲のいいゲイの店で馴染みになると、そこでかかるのは小林旭や石原裕次郎といった歌謡曲になってくる。そうすると歌謡曲のルーツを掘り下げて聴いていく。新しい歌謡曲にもいっぱい出会うし、圧倒的に藤圭子が好きになったしクールファイブが好きだった。」

―またそこを並列で聴けるってすごいですよね。やっぱり二十歳くらいって、カウンターのカルチャーが一番染まりやすいし、ここはまあ、納得というか。それで歌謡曲までおさえるっていうのが

「いや、あのね、結局は洋楽から入ってるじゃないですか。で、その好きな洋楽を探していくとですね、そこに共通のものがある訳です。つまり、藤圭子とかクールファイブに。クールファイブにだって好きな洋楽の要素、アメリカのドゥワップが入ってるし、イギリスのロックがあるんです。他のコーラスグループには興味がわかないのに、クールファイブだけは断然良いと思えるのは何なんだろう。そのことがが分かったのは、たまたまクールファイブの生演奏を、1969年に渋谷のパブで観たときです。「長崎は今日も雨だった」を出したばかりで、まだ火が点いてヒットする前でした。誰も真剣になんか聴いていない、箱バンで30分のステージでクールファイブが歌っていた。「長崎は今日も雨だった」も歌ったんだけれども、僕は「結構いいな、これ!」って思いました。そして驚いたのが最後の曲です。クリフ・リチャードの「ダイナマイト」を歌ったんですね。その前川さんの歌が力強くて、クリフ・リチャードよりダイナマイト感とかパワーに溢れていて、オリジナルよりも全然良かったんですよ。」

【行 達也】
1968年大阪生まれ。長年勤続したタワーレコードを退職後
2004年東京下北沢にmona records(モナレコード)を開店。
CDショップにカフェ、ライブスペースを併設した小さな音楽総合施設を目指す。
http://www.mona-records.com
現在、某CDショップのレーベル部門にて勤務。

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